畑のブログBLOG
2017.09.13
緩なればその本を治し、急なれば則ちその標を治す2
標(枝)の部分も転化すれば本(幹)になることもある。
幹からすれば枝は標だが、太い枝と細い枝を比べれば太い枝も本と言えるかもしれない。
自分と他者を比べれば、自分が本で他者が標なのか、あるいはその逆もある。
自己中心的な考えはどちらにあたるのか。
争いごとは自分が本であるという考え方が強いために起こるのか。
常と変という意識もまた入れ替わる。
人の常識は他者からすれば変(非常識)となる。
明らかな常は常から離れない。
明らかな変は変から離れない。
どちらも極まれば、転化する。
本があるから標があり、標があるから本がある。
常があるから変があり、変があるから常がある。
自分がいる他者がいて、他者がいるから自分がいる。
日本があるから他国があり、他国があるから日本がある。
陽があるから陰があり、陰があるから陽がある。
しかし、全ては陽(気)から始まっている。